12日間でバルカン半島とハンガリーの10ケ国をめぐる旅。
国は以下の順番にバスでまわります。(★は今回訪れる場所)
ギリシャ(アテネ)→ブルガリア(ソフィア)→マケドニア(スコピエ)→コソボ(プリシュティナ)→モンテネグロ(コトル)→クロアチア(ドゥブロヴニク)→★ボスニア・ヘルツェゴビナ(サラエヴォ)→セルビア(ベオグラード)→ハンガリー(ブダペスト、エステルゴム)→スロバキア(シュトロヴォ)
ドゥブロヴニクを後にして、バスに乗ってボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエヴォへ向かいます。
ドゥブロヴニクの記事はこちら
途中でボスニア・ヘルツェゴビナの名所モスタルにも停車し、サラエヴォのバスターミナルに到着。
ドゥブロヴニクの賑やかさとはうって変わって、なんとなく哀愁漂うような風景です。
路面電車に乗って中心市街に向かいます。
サラエヴォは第一次世界大戦の引き金になったサラエヴォ事件が起こった場所。
近年ではボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の激戦区だったこともあり、どうしても負の色眼鏡で見てしまう部分がありました。
ほんの約20年前、サラエヴォで起きた悲劇。
1991年ユーゴスラビア紛争でユーゴが解体し、1992年にボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言しました。
ユーゴ解体によって、もともとクロアチア人などいくつかの民族が生活していたボスニア・ヘルツェゴビナのうち、その約3割を占めていたセルビア人は独立に反対し、分離を目指してサラエヴォを包囲。
他民族に対して軍事攻撃に出ました。
3年以上も続いた紛争の犠牲者の大部分が、軍人ではなく市民でした。
子供や女性に関わらず犠牲となったようです。中にはサラエヴォの地下トンネルに避難をして脱出していた人々も多くいたようで、当時の紛争の激しさを感じさせられます。
第一次世界大戦の引き金となった現場の橋。
フェルハディヤ通り。
旧市街バシュチャルシヤにつながる大通りです。
Pijaca Markale(マーケット)の向かいにTepsijaというカフェ風のお店を発見。
のぞいてみると、地元客が次々と渦を巻いたパイのようなものを買っていくではありませんか。
気になったので、中に入って食べてみることにしました。
注文すると、大きな渦巻きを小さく刻んでくれます。
現地の人を真似してフォークとナイフでいただきます。
あれ、これは美味しい・・・!
カフェでお茶だけするつもりが意外にも美味しかったので追加で購入してしまいました。
その時は正体不明の食べ物でしたが、後で見てみるとBurek(ブレック)というボスニアの庶民的料理のようでした。パイ生地にひき肉やジャガイモが入ったシンプルなお食事パイ。
私が入ったTepsijaはブレックが専門のお店のようで、上にヨーグルトソースのような酸味のあるソースがかかっていました。街のパン屋さんでもブレックは売っています。
大きな渦巻きではなく小さな渦巻きで。
パン屋さんでも購入。はまってしまいました。
ボスニアの料理はオスマントルコ時代の影響を受けたものが多く、
ケバブやピタ、羊や牛の肉料理が多いです。
腹ごしらえができたので、歩いて一番のメイン通りに向かいましょう。
バシュチャルシヤは、ボスニア・ヘルツェゴビナの旧市街の中心です。
オスマントルコ時代の名残でモスクやトルコ風のカフェやレストランが並びかなり賑わっています。
おそらくサラエヴォで一番混雑する場所ではないでしょうか。
夜は明かりがポツポツと灯り、異国風な雰囲気。
どこか京都のような雰囲気もしませんか?
カフェに入りボスニアンコーヒーをいただきます。
呼び名はボスニアですが、いわゆるトルココーヒーです。
トルココーヒーはバルカン半島では広く一般的に飲まれているようですね。
サラエヴォは今は街の大部分が再開発されたようで、高層ビルやショッピングセンターなど大きなビルが立ち並んでいます。
けれども、一部ではまだ紛争の痕跡は残っていて、特に銃撃戦の酷かったスナイパー通りには幾つもの銃弾の跡が残されていました。
間近で見ると生々しいものがありますが、約20年前の戦争は自分たちが日本で平和に生活をしていた最中に起こっていた事実だと思うと、今もなお世界で起きている紛争が恐ろしくなると同時に、人間の愚かさをひしひしと感じました。
そして、そのような出来事に当時は無関心だった自分にも愚かさを感じました。
今回は時間の都合で行けませんでしたが、他にもウォートンネルなどの見所があります。
サラエヴォで起きていたような紛争が、まだ世界で起こっていると思うと悲しくなります。
でも、紛争を身近な出来事として考える機会があっただけでも行ってよかったと思っています。
次回は、セルビアのベオグラードへ向かいます。
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